HT東京羽村 第1回 新スタディグループ |
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開催日時 | |
2018年07月07日 13:10〜2018年07月07日 16:30 |
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レポート/感想 | |
神様って何、どんな存在、状態、在り方」<第1回報告書>平成30(2018年)年7月25日天気:快晴。 総参加数:20名(男性16名、女性4名;スカイプ参加1名含む)。 「神との対話(以後神対)」との出合い手段:友達9名、本屋6名、ネット4名、電車の 吊り広告1名。 今月のテーマ:「神様って何、どんな存在、状態、在り方」。 1.「神対」に出合った後、日常生活を通して、自分の人生に役に立っている事柄について。 野川:出合ってもう20年近く。 その間、事ある毎に教えを日々の生活で活用しています。 特に人間関係と、相対性の捉え方が役に立っています。 例えば人間関係の目的とは,?私が、あなたの要求や期待にどれだけ応えるか、ではない。 ?あなたが、私の要求や期待にどれだけ応えるか、でもない。 ?私の魂があなたを引き寄せる事で、内側に湧き上がる様々の思いや感情の中から、魂の望む在り方に照らして、どれを意図的に選択すれば、大きく広く高貴な自分を引き出し表現し体験するか、そして望む自分の人生を創り経験し、喜びと共に深く感じて進化していくか、という自分自身への挑戦だ。 この教えを有効利用するのに数年かかっていますが、現在私の人間関係は、とても良好です。 また、相対性の目的を理解し利用する事で、良い悪いと判断する事が少なくなりました。 自分にとってあまり賛同出来ない考え方や意見でも、その人の生き方を素直に尊重する事が出来るようになりました。 二極性の捉え方から解放され、生きる事がずっと楽になりました。 以下は、参加者各自の意見・感想です。 発言順に列記します。 ⦿「神対」は初版が出た頃(1997年頃)より読んでいるので、長く私の人生に関わっています。 以前は私も勉強会を開催していました。 最近思う事は、沢山の知識を広げるよりも、自分自身が悟りの境地に至る体験を切望している自分がいます。 ⦿自分自身を見つめ直す時に、いつも「神対」を読み返しています。 ⦿“一番苦しい時にこそ、最も気高い自分を表現するチャンス”という教えを活用する事で、何回も苦しい時期を乗り越え、現実が自分の望む方向に変化していく経験をしています。 ⦿真理の探究が大好きで、最近は視野が広がり、宇宙的視点で物事が見えるようになった事。 また「神対」やその他のスピリチュアル系の本を読む事で理解が深まり、今は悩みが少なくなって、自由自在な人生に近づいているかなと思っています。 ⦿「神対」の知恵を活用する事で、私の人生が大きく変化しているのですが、その中でも次の質問が、私にはびっくりする出来事になりました。 それは、“いま愛ならどうするか”です。 実はある教室に参加しようかと迷っている時、この言葉を自分に問いかけてみました。 すると答えが返ってきて、参加する事に決めました。 実際その教室は私にとって、楽しくて夢中になれる場所でした。 とても素晴らしい人々との出会いに私を導いてくれ、“この質問は凄いな!”と思いました。 ⦿「神対」に出合って、役に立っている事は、自分がまず明るくなった事、そして心に余裕が出来て人生を楽に生きられるようになった事です。 ⦿「神対」に出合い、以前から疑問を抱いていた質問に対する答えが分かり易く具体的に説明されていて、その答えが私の心に深く響き、以後人生が楽になりました。 ⦿「神対」をまだ読んでいません。 スピリチュアルには興味があり、今日は皆さんの考えや意見を聞く事を楽しみに参加しました。 ⦿「バシャール」や「ラムサ」、その他様々なスピリチュアル系の本を沢山読んでいます。 「神対」はその中の一つで、実は記述されている内容自体には、特に驚かされるものはありませんでした。 他の本の中でも全体的に同じような教えが書かれているからです。 ただニールさんは、普通の人の疑問を発するので、このような質疑応答形式の文章は、多くの人が学びやすい書物かなと思いました。 ⦿精神世界は小さい頃から好きでした。 「神対」を読んだ後変わった事は、自分が軽くて自由になった事。 社会の中で住んでいる私達は、常識や道徳や慣習等、普段から様々の規則で縛られていますが、本当の私達は自由なんだ、と気付きました。 この自由さが、私の人生を楽にしてくれました。 ⦿小さい頃から生きる意味や人生の目的など、いろんな方面から自分なりに一生懸命探求してきました。 それは現在も進行中です。 最近友達から「神対」を勧められ読んでみました。 多くの点で共感する内容に触れ、自分自身が以前よりずっと自由さを感じています。 今後は、より自由な自分の世界を、そして自分の意識で創造していく社会活動に力を入れたいと考えています。 ⦿以前、別の勉強会に参加している時に同席していた仲間から「神対」の話を聞きました。 とても興味を引く面白い内容だったので今日参加してみました。 初心者ですので宜しくお願いします。 ⦿小さい頃から、ずっと生きづらさを感じて育ってきました。 精神的にも肉体的にも、かなり厳しい時期を過ごしてきました。 2012年頃、ふと、“自分はどうしてここ(地球)にいるんだろう?私はどこか違う場所から来ているのでは?”という疑問が湧きました。 すると突然、“気が付きなさい!”という、内側からの声が聞こえました。 それからアセンションという言葉が頭に浮かび、ネットでいろいろ検索している内に、何か近い将来地球で大きな動きがあるのではないかと感じて、スピリチュアル系に興味を持ち始めました。 「神対」は友達からの紹介で最近知りました。 読んでみるととても面白いと思いました。 そこには、人間関係や人生の目的等、みんなに共通する問題点が、質問と回答という形式で展開されていて、現実的な対処方法として、とても分かり易く理解しやすい書物だと思いました。 そこでもっとしっかり学びたいと思い参加しました。 ⦿子供の頃から精神世界に興味を持っていました。 特に、手塚治虫先生の「火の鳥」には、はまっていました。 「神対」は私にとり、精神世界の基盤に位置づけする書物です。 自分の人生のどこが変わったのかについては、まだよく分かっていません。 ただ神が愛なんだ、という事は分かっています。 ⦿この勉強会に参加して6〜7年になります。 私は50歳で大きな転機を迎えました。 その時、はたと、“人は死なないんだ!”と気付きました。 勿論肉体は無くなりますが。 それからシルバーバーチやバシャールや禅等、古今東西の本を読みあさり、その途中に出合ったのが「神対」です。 だから私の場合、「神対」に特化しているわけではありません。 私の中で、ありとあらゆる書物が同じような内容を説いているので、それらの教えは間違いなかろうという確証を得る為にこの12年間暮らしてきた、という感じです(現在62歳)。 「神対」は非常に分かり易い内容ですが、一方で、スピリチュアル系にはまる人は孤立する傾向にあるので、私はこの勉強会に参加し続け、様々な考えや思いを交流しあったお陰で、“ああ、私の感じている事は間違いないな”という確信を得たのは大きいと思っています。 最近は疑問もあまりなくなって、特に本からの知識はいらないかなと思っています。 一つ面白い話です。 先日、導かれるように、イタリアのアッシジに行ってきました。 皆さんご存知、聖フランチェスコの生誕地です。 この方は、キリスト教の真髄を、命をかけ生涯を通じて探求された聖者。 それ故か、そこは単なるスピリチュアル・スポットではなく、空気や風の音等とても澄んだ気持ちの良い場所で、周りの雰囲気とは全然違って感じました。 興味のある方にはお勧めのスポットです。 ⦿最近いろんな出来事が沢山生じて、話始めると終わりそうにないので控えておきます。 今日参加する予定の友人が、大雨の影響でバスが運休して来られなくなって、スカイプで参加する事になりました。 ⦿この勉強会には、以前埼玉に住んでいた時に、何回も足を運んだ者です。 今日はスカイプで参加出来て、皆さんとの分かち合いを大変嬉しく思います。 ⦿今日は羽村の勉強会再開という事で、お祝いを兼ねて参加しました。 私も別の場所で勉強会を開催しています。 私にはどちらかというと「神対シリーズ」よりも、ニールさんの著書、「変えれば、変わる」、が自分の人生に最も影響を与えた大切な書物となっています。 ⦿小さい頃、キリスト教の幼稚園で、あまりよろしくない神の概念(恐い神や強制する神)を植え付けられました。 それを解いてくれる本として「神対」は、沢山あるスピリチュアル系の書物をの一つとして、私にとっては役に立っています。 2.今月のテーマ:「神様って何、どんな存在、状態、在り方」を読み終わった後の感想や質疑応答。 Aさん:神の概念がいろんな視点から説明されているので、出来れば二つに分類したほうが分かり易いのではないか?例えば一つは、神を一なる創造的な知恵、という視点で説明されている部分。 もう一つは、認識主体としての個別化された神(悟った人間)、という視点で説明されている部分。 さらに何故神は愛なのか、何故そう思うのか?神の定義が人によりそれぞれ違うので、その辺りを整理した方が良いのではないでしょうか? 野川:Aさんの提案と重なると思うのですが、皆さんに尋ねてみたい質問があります。 例えば次の2つの文章を、考えてみましょう(私の意見は後に述べます)。 1)“わたしのいるところには「悪」はないし、悪魔もいない。 あるのは存在の全て、それだけだ。 全てはひとつ。 そしてその認識と経験だ。 わたしの世界は、絶対の世界であって、そこでは、ひとつのものが他との関係によって存在しているのではなく、何ものからも独立して存在している。 わたしの世界は、存在する全てが愛であるところだ(?P.68)”。 2)“わたしは光であり、光を創造し、光を可能にする闇である。 限りない善であり、善を「善」たらしめる「悪」である。 わたしはその全てであり、存在する全てである。 ----- あなたを通し、存在する全てを通して、わたしは自分を経験する。 -----わたしは、わたしではないものを創造した。 自分を経験する為だ。 しかし、わたしは、創造するものの全てである。 従って、わたしでないものもわたしだ(?P.27〜28)。 ” 一方で存在する全ては愛だ、と説明されながら、他方でわたしは闇であり悪である、と説明されています。 一見矛盾しているこの2つの内容を、皆さんはどのように理解し受け止めておられますか? Bさん:それは視点の違い、意識の違い、波動の違いだと思います。 私の中では、全ての全てが神だから、神は愛であり闇でもあるという事で特に問題はありません。 Cさん:愛とは、広い意味ではやりたい事は何でもやっていいよ、それが例え善であろうが悪であろうが、と理解しています。 そして神は何でも肯定してくれ、その全てを与えてくれる。 だから神は、善であり悪でもあると思います。 Dさん:私が愛とは何かと定義すれば、あるがままに受け入れる、です。 極端な話をすれば、殺人も神は受け入れます。 殺人者も非殺人者も、お互いのカルマに対する学びがあるとも考えられるからです。 もう一つ、“全ての万物に神が宿る”という、素晴らしい古神道の教えがあります。 神を本質・本源から見れば、ひとつの神という視点になり、一方現象の世界あるいは相対の世界から見ると、この資料が示すように、神の様々の様態・側面が表現されると思います。 その両方の視点から観察すれば、理解出来るのでないでしょうか。 Eさん:一見矛盾しているように説明されている神の概念ですが、私が考えるに、源・絶対的で宇宙的なエネルギー・あるいは宇宙存在としての神の世界では、それのみしか存在しません。 神は概念として存在していても、体験し感じる事は出来ません。 頭でなく経験する為には、絶対の世界では不可能です。 そこで経験する為に、あえて相対性・二極・比較の世界、つまり善に対する悪、正しいに対する間違い等の、二面の世界を創った。 そういう舞台設定を便宜上創った上で、実在する宇宙のエネルギーである思いや感情を経験し感じる事が出来るようになった。 その為に、このような一見矛盾するものを配置した、あるいは仕組んだものと考えています。 Fさん:Aさんの質問の中の、何故神は愛なのか、そう思うのか?についてですが、私なりの一つの答えは、様々の聖典を読み通す中で、そこに記述されている神の概念がほぼ同じであり納得出来るから、つまり私自身の中で腑に落ちるからです。 質問に対するもう一つの答えは、自分が実際体験をした感覚からそう思う、とも言えます。 ただ残念ながら、私はまだその体験をしていません。 これからの人生で、是非神自身を自分の内側で感じる世界を創造していきたいと強く感じました。 Gさん:私の中では、相対宇宙は大切だと考えています。 何故なら、愛の対極の不安がなければ、愛が実感出来ないからです。 今,夏ですが、「暑い」は冬の「寒い」があって、暑い、と分かるからです。 対極の目的がそこにあると思います。 対極に関して、確か「神対」?の終わりの頃に、“星空をみてごらん”という文面があったと思います。 そこに昔の私が体験した対極があって、“その事を思い出せば良いんだ”という文面を思い出します。 それで私はよく星空を見るのですが、そんな過去があったのかなと思い巡らしていると、“じわっ!”とくる時があります。 Hさん:神は愛というのは分かるし、究極的には善悪はない、というのも分かります。 ただ現実社会を生きる中では、悪らしき出来事や人が大勢いて、それに翻弄されている自分がいます。 そのような環境で、知識をどう活用するか、どう活かしていけば自分自身と折り合いをつけていけるか等、結構複雑で難しく、悩みながら生きているというのが現状です。 Iさん:確かに二極性がある事で、つまり、幻想として不安を用意する事で、愛を体験出来ると思いました。 ところで私は、何が悪か、について考えていました。 何故なら、悪の概念は個々人によって違った意味合いを持つからです。 例えば「悪人」でも、自分の身内やメンバーの中では、その人が生存する為に行動しています。 その点でみると、その行為はその人にとり愛かもしれません。 つまり悪と判断する基準、あるいは悪という概念を定義付けする事は難しいと思いました。 Jさん:私の中で一番しっくりくる世界観は、仏教の「空即是色」です。 私が感じている空とは、宇宙の全てを含んでいる、あるいは包んでいないものです。 その領域は、何も判断していない空間、価値判断がないもの、定義出来ないものです。 それが、世界の本質だと考えています。 そして、私は自分が瞑想する事で、その中に入っていくが出来て、自分が一番安心出来る場所だと考えています。 Kさん:少し余談ですが、「宇宙一美しい奇跡の数式」といいう本が出ました。 アインシュタインのE=mc2と同じようにシンプルな数式です。 神とは、「0=∞=1」。 これが神の状態です。 つまり0は神で、無限で、ひとつのものという意味です。 Lさん:初めてこのような会に参加して、皆さんの話を聞きながら、神様について考えていました。 自分の中に神様がいて、いろんな事を知って体験して、自分の中が少しずつ変化していく。 そのプロセスがとても大切だと思いました。 神様という存在を通して自分が高まっていけるような、そんな人生を送りたいと思いました。 3.以下は、今月のテーマに関して、特にAさんと私、野川の質問に関する、私自身の考えや意見です。 要約文や「神対シリーズ」を基に、神の概念について、そしてその詳細部分について、順番に説明を加え整理してみたいと思います。 最初に私は神の様々な概念を、以下の4つに分類してみました。 1)人間の視点で表現された神:「存在」の欲求(概念の知を体験したいという切望)、愛と不安という二極・相対の感情、個別化された神(私達)、感情の総和(悲しみ・笑い・若さ・甘さ等々)、生命、5つの神の姿勢(喜び・愛・受容・祝福・感謝)、光であり闇、善であり悪、わたしでないものもわたし、男・女・両性・無性、古代人の知恵、私達大勢の集団的経験、傷つきえないもの、最も輝かしい瞬間に閃くアイディア(直観・神性。 仏性)、創造者であり非創造者、愛=自由=喜び=平和=一体化、強制・命令・主張・期待しない神、素晴らしく豊かな感情、モーゼ・イエス・釈迦、ムハンド・その他大勢の覚者。 2)自然の摂理的視点(地球を含む)で表現された神:相対性システムの創造、時間(過去・現在・未来)、地球の法則(落下の法則・作用反作用の法則・循環の法則・原因と結果の法則等々)、生命=変化、風、太陽、雨、花、香り、空気、物質(動・植・鉱物の全て)、虹、星、雪の結晶の一つひとつ、鷲、鳩、ライオン、偶然・共時性・「ランダムな出来事」、分離の領域、目に見えるものは全て神の現れ。 3)物質的宇宙の視点で表現された神(但しどこまでの宇宙の領域かは、定かではない):相対性システムの創造、時間(過去・現在・未来)、分離の領域、様々の惑星を調和に連動させている宇宙のシステム自体、宇宙の崩壊と収縮とその永遠の繰り返し。 生命=変化。 4)究極の現実の視点で表現された神(但しどこまでの究極の現実の領域かは、定かではない):神のエッセンス・本質=私達のエッセンス、リンゴとオレンジの芯・核心領域、全てがひとつの領域、偉大なる「みえざるもの」、「存在の全て」=「無」=ひとつ、「存在」の欲求(概念の知を体験したいという切望)、純粋なエネルギー(見えるもの、見えないものを含めた全ての第一原因)、生命の源、全てを受け入れる(ノーと言う理由がない状態)、気付いている状態、いまという状態、最初の考え=純粋な思考=欲求=全ての創造の始まり、愛と呼ぶ究極の感情、認識と経験、プロセス、変化、全ての最初の原因、始まりであり終わり、存在が存在する前の存在であり存在が存しなくなった後の存在、全ての知識・認識・データや情報・理解と経験、宝庫であり源泉、力・エネルギー・企画・経験、分離・相対でなく一体の領域、無条件で無制限。 ★上記のように私の独断で、神の概念を4つに分類し、出来るだけ細分化してみました。 さて神とは、見えるもの/見えないものの全てを含むものであり、また感情の総和でもあると説明されているので、「神ではないもの(否定的な部分:不安、冷たい、悪、憎い-----)」も当然神の一部として含まれるのが妥当だと思います。 ところで一部の人は、この否定の部分が神の一部と指摘されて、“え〜!”と不可解な気持ちになるかも知れません。 何故なら、神は私達にとり全ての良き存在、というイメージを心のどこかで感じているからです。 私達の直感、もしくは身体の細胞が覚えているからでしょう。 では、何故神は愛であり不安、光であり闇、善であり悪と、一見矛盾して説明されているのでしょうか。 それについて、「神対シリーズ」から必要な部分を抜粋しながら、1.悪について、2.相対性の目的について、3.幻想について、4.究極の現実・愛について、の順番で以下に説明を加えていきます。 1.悪について: * あなたは神に匹敵する力を想像の中で創り出し、神の意思が曲げられる方法を探し出そうとする。 そうやって、神話の中で「悪」と呼ばれるものを創り出した。 神が悪という存在と闘っていると想像した(「神対」?P.29)。 * 大きな意味では、「悪い」事は全て、あなた方の選択の結果として起こっている。 間違いは、それを選んだ事ではなくて、それを悪と呼ぶ事である。 それを悪と呼べば、自分を悪と呼ぶ事になる。 創造したのはあなた方だから(「神対」?P.56)。 ★ 上記のように悪という概念は、否定的な感情や思いを、神が意図した相対性の目的を把握しきれず、私達が「悪」と命名した。 そこから悪という概念が生まれました。 一部の既成宗教が教えるように、神が天国と地獄を創った訳ではありません。 2.相対性の目的について: * 神は、愛が存在するためには――そして純粋な愛である自分を知るためには――対照となるものが存在しなければならない事を知っていた。 (中略)そこで、神は偉大なる極――愛の絶対的対極にあるもの、愛ではないあらゆるもの――を創り上げた。 それが現在「不安」と呼ばれるものだ。 (中略)あなた方は、純粋な愛を人格化して神と呼び、恐るべき不安や恐怖を人格化して悪魔と呼んだ。 地上のあるものは、(中略)天使軍と悪の戦士、善の力と悪の力、光と闇の戦いのシナリオを付け加えた(?P.42))。 * 自分が何であるかを知る為には、自分ではないものと対立しなければならない。 これが相対性理論の目的であり、全ての物質的な生命の目的だ(?p.45)。 ★ 上記のように、本当の自分を知り経験する為には、その反対の部分が存在しないと表現し体験出来ません。 その為に神は、二極あるいは相対性のシステムを創造し、2つの感情を創造しました。 それが、愛と不安です。 この不安は、愛を支える為に、幻想として創られました。 私達は愛の感情から、優しさ・思いやり・寛大・赦し・自由・公平等などの、全ての肯定的感情を創造しました。 不安の感情から、疑い、恐れ、憎しみ、嫉妬、束縛、無関心等などの、全ての否定的感情を創造しました。 実はこの両者はコインの表と裏のように、どちらも大切な感情です。 この神でない部分があるから、本当の神自身を(私達自身)表現出来るようになるからです。 このような理由で神は、私達が不安から創造した否定的な感情や思いを、愛し受容されています。 それどころかその感情を有効利用する事で、本当の私達が体験出来ると、その相対性の目的を明確に伝えています。 だから私達は敵を憎まず、愛でその人達に接していく姿勢が問われるでしょう。 この事を、以下の文章が的確に説明していると思います。 * 悪と言うが、それはあなた方がそう呼ぶだけだ。 その悪だってわたしは愛する。 悪と呼ぶものを通じて、あなた方は善を知り、神の業を行う事が出来るからだ。 すべては相対的である。 わたしは「善」を愛しているのと同じように、「悪」を愛している。 この事が理解出来れば、あなた方は神を理解出来るだろう(?P.87)。 ★そこで大きな意味あるいは広い意味では、相対性の否定の部分も神に含まれます。 何故ならそのシステムが機能するお陰で、そして本当でない感情である不安を幻想として創造する事で、本当の感情である愛を表現し経験し喜びを感じる事が出来るからです。 このように幻想として創造された不安は、本当の偉大な自分を体験する為に、神が仕組んだ大切な道具(ツール)です。 しかしそのシステムは、神の本質を表現する為に意図的に創られたもので、実際は存在しません。 さてここからが大切なポイントになります。 神の本質あるいは究極の現実(神)を知る為には相対性の目的を見抜き、沢山の「(神の)在り方、あるいは感情の総和」から本当の神(大きな私達)を選ばなければなりません。 その事を以下の抜粋した文章が説明しています。 * それじゃ、それが魂の欲求でしょう。 そう。 広い意味ではそのとおりだ。 だが魂が求めているこの「わたし」には非常に複雑で、沢山の層、感覚、面がある。 (中略)冒涜的な面と深い面、小さい面と大きな面、うつろな面と神聖な面、おぞましい面と神々しい面とがある。 分かるだろうか? ええ、分かります---上と下、前と後、善と悪---。 そのとおり。 (中略)そこで、「わたし」であることを求める魂には、壮大な仕事が待っている。 「在り方」の膨大なメニューの中から選ばなければならない(「神対」?P.236))。 *マスター達とは、相対性の世界の秘密を発見した人達である。 そしてそれが現実だと認めなかった人達である。 要するに、愛だけを選択した人達である(?P.82)。 ★上記でお分かりのように、私達には神の様々な側面の中から、意図的に在りたい自分、望む自分の思いや感情を選択するという、膨大な作業が待っています。 その事が、望むべき人生を創造していく上で、とても大切な要素となってきます。 否定の部分を嫌ったり避けるのではなく、それを受け止め理解し活用する事で、本当の自分を創り上げていく人生が実に重要になってきます。 3.幻想について: * あなた方は幻想を生きているが、その幻想は全て現実ではない事を理解しなさい。 だが、その幻想は、あなた方に真実とは何かを教え、経験させてくれる(「神とひとつ」P.120)。 * あなたは究極の現実という偉大な経験をするために幻想を利用するのだということを、いつも覚えていなさい(「神とひとつ」P. 226)。 ★ 上記のように、神は、本当の神自身(本当の私達)を体験する為に、相対性というシステムを創造し、愛という実在する感情や思いを体験する為に、幻想として不安を創造しました。 そして相対性の目的を見抜き、幻想を私達が人生に活用し利用し適応する事で、最高の私達自身を再創造する事が出来るプロセス、つまり神になりゆくプロセスを創りました。 4.究極の現実・愛について: * 愛は究極の現実だ。 それが唯一であり、全てだ。 愛を感じるという事は、神を体験する事だ。 至高の真実の中で存在する全ては愛であり、存在した全て、これから存在するであろう全ても愛である。 絶対の領域に入る時、あなた方は愛の中に歩みいる(「神対」?P.81)。 * 結局、全ての考えは、愛か不安によって支えられている。 (中略)しかも究極的にはたった一つしかない。 愛だ。 じつは愛こそ全てだ。 不安さえも愛の派生物であり、効果的に使われれば愛の表現になる(?P.43)。 *ところで今まで話してきたシナリオはどれも、「究極の現実」とは何も関係ない事を理解しておかなくてはいけないよ。 それは第三の段階で経験する。 今話したシナリオは、「死後の体験」の最初の二つ、初期の段階の事だからね。 -----では、第三段階はどうなんですか? あなたはエッセンスと合体し、「自分の存在の核心(本当の自分の核心)で、「究極の現実」を体験し始める。 それは、神を体験するって事ですか? 「究極の現実」は、好きなように呼んでも構わない。 「エッセンス」や「アッラー」と呼ぶ人もいる。 「全て」と言う人もいる。 呼び名はどうだっていい。 同じ事を呼んでいるのだから(「神ヘ帰る」P.143)。 *前に「死」は、あなたが、自分のアイデンティティを再確立するプロセスだ、と言った事を思い出してごらん。 ?死のプロセスの第一段階で、あなたは身体から解き放たれ、身体やその外見への自分の同一化(アイデンティティ)という(それまで残っているかも知れない)考え方もなくなる。 ?死のプロセスの第二段階で、あなたは精神から解き放たれ、精神とその中身への自分の同一化という(それまで残っているかも知れない)考え方もなくなる。 ?のプロセスの第三段階で、あなたは魂から解き放たれ、魂とその個別性への自分の同一化という(それまで残っているかも知れない)考え方もなくなる。 この「自己との全面的な溶け合い」の中で、あなたは「知る事」と「経験する事」が一つである場に、そして自分は身体でも精神でも魂でもない事を知って経験する場に、達する。 あなたは、それらよりはるかに大きい何者かだ。 あなたは、その全てを生み出すエネルギーの総和なのだ。 死において、あなたの個々のアイデンティティは全て脱ぎ捨てられて、「あなたの(小さいあなた)」「あなたからの(大きなあなた)」「分離」はついに終わる。 あなたは、私がそこで迎えてくれる神との出会いを経験する、と仰るんだと思ってましたよ。 その通りの事を話してきたではないか。 だけど、あなたはいま-----。 あなたはまだ、「あなた(本当のあなた=神)」が神と分離しているという前提で考えているようだが、わたしは繰り返しもうそうではない、と言っているんだよ。 物理的な人生を過ごしている今は信じられないかも知れないが、「合体の瞬間」には、もう一抹(イチマツ)の疑いも残らないだろうね。 (神ヘ帰るP.286〜287)。 *「善」だの「悪」だのというものはないんだよ。 「究極の現実」にはそんなものは存在しない。 (「神へ帰る」P. 261)。 ★ 上記のように、神の本質は愛そのものである。 一方、神全体として捉えれば、幻想として創造された否定の部分も神の一部として含まれます。 しかし既に説明をしてきましたが、その幻想の目的は愛を支える、あるいは表現する為に創造されました。 私の意見を再度整理してみましょう。 神の「在り方・存在」を広く見れば、幻想として創造された相対性の否定の感情や思いも神の一部となります。 一方、究極の現実、あるいは神の「在り方」を中心に絞れば、そこはひとつの世界、絶対的愛、純粋な感情や思いの領域で、あるのは愛あるいは喜びそのものでしょう。 従って究極の現実・神(本当の私達)の存在は、以下の文章で完結されるでしょう。 * あなた方は善であり、慈悲、同情、理解だ。 あなた方は平和であり、喜び、光だ。 あなた方は赦しであり、忍耐、力、勇気、苦しいときの援助者、悲しいときの慰め手、傷ついたときの癒し手、迷ったときの教師だ。 あなた方は最も深い知恵と真実、最も偉大な平和と愛だ(?P.118)。 * あなた方がわたしに似ているとは、あなた方は物理的な存在ではなく、勿論、物理的な形でもなくて、自分が望んだ時に物理的な存在という形を取る事が出来る、という意味だ。 それにまた、望めば他の形を取る事も出来る、という意味だよ。 つまり、あなた方は純粋なエネルギーであり、創造の力であり、無限の智恵の源であり、無条件の愛だ、という事だ。 つまり、あなた方は身体ではなく、身体を包み、身体を創り出したエッセンスだという事だ。 あなた方は生命そのものであり、あるとき、あるやり方で存在として現れた、それは、そうするのが楽しいからだ、という事だよ。 (明日の神、P.205〜206)。 ★ 以上が、神の概念(在り方や状態)に関する4つの面の分類と、神は一方で愛でありもう一方で悪そのものである、と説明されている事に関する私の考察です。 このレポートが皆さんの理解を深める為に役立てば嬉しく思います。 <終わりに> 勉強会後、車3台で、以前行き付けだったレストランに出かけ、夕食を取った。 あまりに大勢だったので、3つのグループに分かれて、それぞれが好きなテーマに沿って、分かち合いが始まった。 引き続き神の概念について意見交換をしたり、個々人の体験を共有したり、個人的な悩み等をみんなで考え合った。 時間が飛ぶような勢いで過ぎ去った。 素晴らしいひと時に、感謝! 野川 |
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